時間のゴミ捨て場

暇な大学生の隙自語ブログです。将来きっと黒歴史になります。

他愛もないはなし。

【本日のテーマ】

「知識を防壁として扱うのは、自身の主張に執着する原因となる。」

 

知識の防壁

 

自分の意見、主張というのは至極単純な事が多い。「~は間違っている」「~は正しい」と思うのが意見、主張であり、その理由は「自分はそのほうが好きだから」「それは嫌いだから」とか、自身の考えを総合化した上での直感であると思う。

 

そこから「なぜなら~」と以下に続くのが知識である。人に物を伝えるとき、この以下の部分が非常に重視される。どれだけ崇高な考えでも現実性、客観性がなければ妄言と判断され、逆に言えばどれだけ突拍子も無い考えでも以下の部分さえ十分なら受け入れられる。

 

この以下の部分が強ければ強いほど説得力が増し、隙のない意見、主張となる。しかし、これは行き過ぎれば反対意見を放っから受け付けない、冷徹で容赦のないものに変わる。

 

知識とは正しさであり、客観性や現実性とは時として悲観的な意味合いを持つ。そうして形となった意見や主張は、知識を持たない意見、主張を間違いとし、主観的かつ非現実的なものを打ち捨てる。

 

それは端からみてとても機械的なものに見え、人の熱を感じないものに映る。

 

世の中で政府や専門家の意見よりも過激な意見やフェイクニュースに近い報道が支持されやすいのは、ここに原因があると思う。

 

政府や専門家は決して自身の意見、主張を曲げてはいけないし、間違ってもいけない。だからこそ、知識という正しさで武装し、主観や非現実性の一切を排除する。

 

しかし、人の心を動かすのはいつだって人の熱である。

 

たとえそれが悪意のあるものであったとしても、人は人の言葉を信じてしまうのである。

執着について

 

前半で述べた冷たい意見、主張に対抗するには、やはり同じ土俵に上がらなくてはならない。ただし、この意見に対抗するために集めた知識は、どこか恣意性を帯びたものになりやすい。なぜなら、「~であってほしい」「~のはずである」という考えが先行するあまり、自身に都合の良い意見ばかりが目についてしまうからだ。

 

知識は正しさであるが、絶対ではない。時代や人の考えによってその有り様は左右されるものであり、意見、主張の説得力を増す知識を集めるのはどうしても主観的な選別が入る。

 

自身の意見、主張を補強するだけの作業は非常に楽であり、楽しくある。そして中毒性があり、他の意見、主張を受け付けなくなり、執着へとつながる。

 

そうして形成されたものは、自身の意見、主張を正しいと思わせるだけの、非常に攻撃的なものになる。そして、非常に熱量の帯びたものになる。

 

前者で述べた冷たさが城壁なら、後者で述べた熱さは大砲である。

 

そして双方がぶつかったとき、正しい意見、主張になるのは大衆が支持した側である。

 

歴史が語るように、正しさを語るのはいつだって勝者なのだ。

 

まとめ

 

 まあ、大してこの話にオチはないわけではあるが、筆者の熱は十分に伝わったと思う。このような意見は社会学や心理学を漁ればそれっぽい研究が出てくると思うし、この意見は筆者が20分間のお昼寝中にふと思い立ったことであるので、なんの説得性も、根拠も、ないない話である。しかし、筆者はこの自分の意見を正しいと思う。なぜなら、主観で見た社会がそう見えたからである。

 

こんなあやふやな意見に説得性、客観性をもたせることが卒論で重要な要素であり、あの憎き教授を説き伏せる、もしくは納得させることが大学卒業するための条件である。

 

なんだね、とても面倒になってきたよ。ボクが正しいと思ったことがそのまま正しさになんねーかな。あー、めんどくさい。おべんきょしよ。