時間のゴミ捨て場

暇な大学生の隙自語ブログです。将来きっと黒歴史になります。

救われないもの

死にたい。生きている理由が全て他人の為で説明がつく。自分の事ばかりを考えるなら、もう死んでしまいたい。就職するのは親のためで、留年しないのは兄弟のためで、今こうして苦しんでいるのは自分の将来のためらしい。自分の将来は自分で決めろと耳が痛くなる程唱えてきた父親と母親が、今の私を見て将来に口出しするようになった。それは保身のためか、はたまた愛ゆえか。勿論両親は後者の方だと言うのであろうが、言葉の節々からは前者の様相を強く感じる。結局は手間のかかる物を手放したいのだ。それだけではないことを今までの生涯で理解しているとはいえ、言葉通りに受け取ってしまえば私は彼らの将来の障害でしかない。自分の欲求を持たず、ただあるのは現状の安寧を願う私は、間違っているのだろうか。将来に夢を抱き、自立に憧れ、巣立ちを選ぶような子を彼らは育ててきたのだろうか。親に自身の責任を押し付けるわけではないが、私はそう思えてしまう程か弱くできてしまったのだ。それを責めるのは私だけの責任になるのだろうか。私が自身で選び、積み上げてきた結果がこの体たらくなのだろうか。答えはきっとあるものではなく決めるものなのだろうが、私はか弱く脆い。自分でそうだと、強く確信している。それでもせっつかれ、押された分だけ前に進んだ私は、また止まり、それが両親を苛む。私は前に進もうと努力はするのだ。しかしそれは周りから見ればいじましく動いているようにしか見えないらしい。私がその認識の差異を伝えようとしても、それらは全て甘えで説明がつくらしい。私は辛い。貴方の将来を想像するのは貴方の経験からなるものだろう。私は貴方ではないし、貴方は貴方でしかない。私の将来を語れるのは私しかいないし、貴方の生涯は貴方だけのものでしかない。互いに違うものであり、だからこそ対等であるべきものなのだ。しかし、私と彼らは対等ではない。それは私の生涯が彼らにとっての子どもであったがゆえに、私の将来が彼らの障害になるからこそ、私は彼らに屈服する。ただ頭を垂れ、目を伏せ、静かに涙する。

時間が全てを解決してくれるが、時間の全ては有限だ。時間での解決策は限度がある。私は限度額のギリギリまで借り、また追加の融資を受けようとしている。愚か者のすることであるのは、理解している。しかし、理解が行動に移るとは限らず、習慣が喉から手を伸ばす。

この負の連鎖を断ち切るためには、一体どれほどの方法があるのか。債務はまた債務を呼び寄せ、完済の目処が立つ頃にはどれほどの時間が自分に残されているのだろうか。暗い暗い想像が、私の将来にどんよりとした物を齎し、そこに進めと、がむしゃらに進めと背中を蹴られる。前にも後ろにも行く場所のない私は、ただ立ち尽くすしかない、そこに立つ場所がいつか安住の地になることを願って。しかし、時間はもう残されていない。崩れ行く足場を前に、私はどう動けるのだろうか。車に惹かれる狸のように、ただじっと受け入れるしかないのだろう。きっと、か弱い私はそうなる。そうなってしまう。そうなって終わるのがお似合いだと、自嘲気味に今までの生涯を思い、救われる思いで死にゆくのだろう。